昭和五十四年十月二十七日 朝の御理解
御理解第四十八節
「我が子の病気でも、可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞ。
云う事を聞かぬ時に、ままよと思うて放っておくような気になって信心してやれ、おかげが受けられる」
なかなか容易にならない事ですね。
子供が病気、しかもそれが大変な病気である場合なんかは、これはもう人情として親の情として放っておくと云う事はとても出来ない。それが人情ですね。
信心をさせてもろうて、我心が神に向うて行くと云う稽古ね。
生神をめざすと云う焦点をおいての信心の稽古。
だからその事によって稽古をさせて頂くと云う事になると、また観点が違って参りますね。
ただ神様を、困った時。難儀な時。人間の智恵力でどうにも出来ない時におすがりするのが神様だ。と云ったような観念ではとても出来ません。
けれども信心の、いうならば、稽古をさせて頂くと云う事になりますと、その事をもって実顕し、その事をもって実証を得て行こうとする、いわゆる観点が変わってこなければ。
例えば今日のような難しい御理解はなかなかもって出来ません。 子供を放っておくなんてとても出来ないね。
私は、これは我が子の病気。子供の病気。と云うだけの事ではない。いつどういう事が起きるとも限らない。又、どういう難儀な中にお互いが遭わなきゃならない事もあるのです。
ですから、もう、いよいよ本気でね。信心の稽古をさして頂く、しかも稽古の焦点は生神をめざす事だ、と云ったようなね。
間違いの無い所に焦点を置いての信心でなからなければ出来る事ではない。
いうならば離れ業的な信心。いや、いよいよお徳を受ける為の信心ですね。
色々、それぞれの何て云うでしょうか、弱い所がありますよね。 もう金の難儀なんかは慣れとるからね、どんなに、やあやあ云われても腹がすわって、ままよ、と云う心が出せるけども。
子供を押さえられて、それこそ天野屋利兵衛ぢゃないけれどもね、
子供が折檻されるのをジッと見ておる、と云う事はなかなか出来る事ぢゃないね。
ここの岩井千恵子先生が、まあ、あれ程の信心が出来て、お道の教師としてお取立頂いたんですけれども、この人は、もう子供だけには弱い。
子供が、どう、と云うたら、これは理屈は同じこつぢゃんの、と云うても子供だけには出来ん。人情ですね。また親の情でもあるね。
かと云うと、もうお金には非常に弱い人がある。
ま、様々、色々有りますけれども、問題はこういう、いうならば間違いなくお徳が受けられると云う、一段一段生神に近づいて行けると云う程の心の状態が開けて来る。
と云う事は、いつの場合でも一心の信心をさして頂きながらね、答えは神様にお任せしてある。右、左は云いませんね。
神様の出たとこ勝負を信じ、出た所をおかげとして受けて行くと良いね。
だから、子供の病気を放っておくような心もち。
しかもそれはね、表現が素晴らしいですね。
子供でも、云う事を聞かん時には、もうあんたかまわん、お母さん知らんよ。と云うような時がやっぱ有るわけ、そういう心の状態になれ、とおっしゃっている。
しかもその、そういう心の状態だけではいけん、そういう心の状態で神様にすがってやれ、とおっしゃっておられるんです。
ここん所が放っておけだけぢゃない。難しいです。
ですから、これによって、いうならば、一段と信心をすすめさせて頂こう。
「自然に溶け込むと云う事は自然を生かす事だ」。と私の頂いた教えの中にあります。
自然に溶け込むと云う事はそういう事だと思うですね。
だから、そこには自然を生かす事になる、おかげを頂く事になる。
いや、お徳を受け力を受けると云う事になるのです。
それをね、難儀と見るとやはり慌てずには居られませんし、はあ本当にどうしてこういう難儀なとこを通らなんぢゃろか、とやっぱ思うんですね。
ここではよく皆さんが体験されます。
二、三日前、一昨日でしたかね。午後からは、以前に佐賀の源右衛門から普通はちゃんと出来合いの金具がありますけども、今度の御譜請の色んなものは全部源右衛門の所の磁気で、おかげ頂きたい。
と云うふうに申し出があっとりましたから、業者の方と一緒にあちらへ、ま、参ります折に高橋さんと正義先生と文男先生と行くごとなっとりました。
そうすると信徒会長とは、ま、それぞれにやはり役前が違う訳です。
所がその日に限って信徒会長から、前から金銭のおくり合わせの事を願ってございましたが、自分が居らなければ出来ないと云う状態下にあった。
それで、私はどうさして頂きましょうか。と云うてお伺いがあったからね、それは佐賀行をしたがよかろう、と。ま、こういう例は幾つもありますよね。
私と皆さんの場合に色々ありますけれど、高橋さんなんか、いつもそういう所がありますね。そういう時に、いうなら自分の家の問題をポンと、こう放っておけれる心持ちですね。
今日は教えておられるのは、だから子供の病気と云う事だけぢゃない。
いや僕が居らんなら、とても今日は困ります、金の工面をしなければならんからとね。
そこには自分の、いうなら我が働くわけです。
まあ、出来るかもしれませんです。けども、それでは信心はひとつも進歩しません。そういう時にね、神様の方を取るか自分の方を取るかね。
それこそ昨日、文男先生が前に発表した御理解ぢゃないけどもね、
それが丸々そのまま徳になると云うのぢゃからね。
そういう場合は、帰ってみたら、もう見事に私がおらんでも金銭のおくり合わせをして頂いとりました。と云うのは、それまでの事。
けどもそれが、いうならばおかげになっていなかったと云うような時には、もういよいよ、それがそのまま徳になると云う事なんです。
その辺の思い込みが出来て来るようになると素晴らしいですね。 文男先生が、もう三日間も御用、御用でした。
家で仕事の方は山積みになっとる。
その日も丁度二十五日、信心研修と、幹部研修がここである、それには必ず出ておりますから、仕事を放って出てくるね。
出て来た途端に自動車と逢ったそのナンバ-が、そしてまた次々にあった自動車のナンバ-が、まるっきり神様がものを云うて下さっておるような事であったね。
一番最後には四一九であった。ここに着いた時頂いた車が、それを、四一九(余徳)と頂いたね、
「文男先生どげんぢゃったかね、一番始めのは」。
「五一九、三一九」。
それをどういうふうに読むかの、五一九は五徳、五つの徳ですね。
次が身の徳。
「次が何ぢゃったかね」。「次が只の一九ですから徳」。
そういう風に、家の仕事はこうやって山積みしておるけども、神様の御用の時には出てくる。
それが帰っておったら全部さばけておったと云う時には、おかげを頂いただけなんだけども。
そういうおかげも受けなきゃならんけどもね。
そういう、いうならば離れ業的な信心と私は申しておりますが、そういう時に徳が受けられるんだと云う事を確信する、と云う事が信心だと云う表現をしておりますね。
御徳ぢゃない、それに余徳までついて来るんだとね。
この辺の所の一つの悟り、昨日私が、その番号のことは云わなかったね。
只そういうなら、目の前に神様の、見るかのように聞くかのような働きを頂いたから、そういう心が開けたのではなくて、そういう働きを見ないでも、聞かないでも、事、神様の事に打ち込んで行く時に、自分の方はマイナスになっていきよってもね。
神様が氏子の用は足してくださる、とおっしゃるから、と云ったような条件のものではなくて、無条件にそれが行の上に表される時に、すべてが身の徳ね。
いうなら五つの徳が足ろうとる時であり、しかも余徳までも頂かれる時だ、と云う事になるのですね。
だから、その時のその感じ方がね。
こういうのっぴきならない時に、事、神様の方へ自分の心、体を向ける時ね。
家の方では、それがマイナスになっておってもですね。それを徳、
これが目には見えないけれども徳になるんだ、力になるんだ。と頂けるような心の状態が素晴らしいんですね。
ですから、信心の稽古と云う事が、どうぞ金銭のおくり合わせを頂きますように。どうぞ病気が治りますように。と云う為の信心ではなくて、私共の信心がどこまでも生神をめざすと云う事。
しかも、いうならば信心の稽古をさせて頂くと云う事ですから、その事をもって力を受ける、その事をもって信心の稽古をさせて頂くと云うようにですね、焦点が変わってまいりますと、今日の御理解なんかが、すっきりと分かってくるように思います。
日頃頂いておる教えをです、はあ、こういう難儀な時にですね、放っておくような心持ちであろうか。と云うふうに、それを実顕してみる。そして実証していく、と云う事ね。
右と願えば左、左と願えば右、といった、ちぐはぐの時に、はあ、
あの時に私は徳を受けとったんだな。と云う体験が生まれて来るんですね。
そして、いわゆる生神への精進であり、徳を受けていく信心、と云う事が云えるのですね。
お互いがね、おかげを勿論頂かなんならんけれどもね。
その事を通じて信心の稽古をさして頂く。
それは金銭の事だけぢゃない。自分の子供の病気と云う事だけではない。
まあ一番我情の放しにくいのは自分の子供の病気。といったような時が一番放しにくいけれども、しんしょう云うて、云う事聞かん時に、もうかまわん、知らんぞ、と云うような心持ち。
この心持ちを昨日から今日にかけては聞いて頂いたんですね。
そういう心持ちと云うものは、なかなか出来るもんぢゃないね。 そういう受けとめ方はなかなか出来るものぢゃないけれども、その気持ちになれ、そういう心持ちになれる。
その事がお徳のキャッチであり、力を受けていく行き方、と云う事でございます。
ま、大変難しいです。
けれどもお道の信心は、やっぱり信心によって徳を受けなきゃならんですから、と云うて何十年信心してもお徳らしいお徳を受けておらない人が殆どであるね。
そこで合楽で、おかげ頂いてる人達は、教祖の教えが徳を受ける事の為にあるんだと解っていて、合楽理念をひもとくと、そこん所が普通出来ないけれども、それが、すんなりと出来るような手立てが説いてあるね。
そして信心を高めていく。
私は、今日のこの教えは、子供がおかげを頂く時の一つのコツのようなものだと云う事ではなくて、お徳を受ける心の状態を説いておられるというふうに聞いて頂きました。「どうぞ」